昭和50年08月08日 朝の御理解



 御理解 第67節
 「何事もくぎつけではない。信心を銘々にしておらねば長う続かぬ。」

 釘着けではないと、いわゆる変わって行かなければならんと。同じ事であってはならん。それは勿論変わって行く事は本当の事へ、本当の事へと変わって行かねばならない。より良い事の為にお互いが信心を各自にしておかねば長う続かんと云う事を、長う続かんと云う事は。信心が長う続いておれば、昨日の御理解から云うと、一年一年有難うなって行くと仰せられるのですから。
 永う続くと云う事は一年一年有難うなっておらなければならないと云う事なのです。只信心が長いばかりでと、よく云う人があります。本当に永いばかりで力もなければ徳も受けきらん、おかげも大した事はないと云うなら、こんなつまらん話はない。そういう確かに一年一年有難うなって行く事の為に、信心は各自でなからなければならないし、又くぎつけであってはならないので御座います。今日はそういう角度から頂いてね、今迄こういう風に頂いた事は初めてです。
 けど私はどうしてこう云う風に申しますかと云うと、昨日は学院生が四名行っとります、昨日夏休みで全部か帰って来ました。まあそれぞれ本気での信心の稽古をしている訳で御座いますけど、今朝私、皆さん御祈念している姿を見てから、ハッと気の付いた事は、正教君が御祈念をする時に必ずこう云う風にして合掌して拝むんです。御祈念をするのです。もう本当にしよいです。これに段々力が入って來るしね、とても御祈念がしよいです。けれどもね、格好悪いですね。何か拝み信心のごとあるです。
 そりゃあ、何ですかね、隅田先生なんかこんなにして体を動かしてなさいますけど、何か如何にも低級な本当に拝み屋的な感じが致します。けどまあ拝む事に間違いないから、拝むのに一番力が入って腹が据わって確かに拝むのですから、姿勢もこんな具合いにしてすると確かに良いです。けれども、なら格好が悪いです。合楽には合楽風と云うのがあって、皆やっておる訳ですけどもね。
 だから私は注意をしようかなと思うたら、今日頂くところがここなんですね。ですから、それで良いのだと云う事です。そりゃお届けの風でも合楽の場合なんかは、ちゃんとここで私がお届け帳にお届けをして、私がハイと返事をするまでは、ここでピタッと頭をつけているんです。そして私がハイと云うたら、頭を上げて、特に私が耳が遠いからこちらへ寄ってこまごまとお届けをするのが合楽の流儀です。
 ですから、合楽の人が他所の教会に行きましてね、こうやって頭を下げとると何時まででも黙っとんなさるから、ハイと云う事を言いなさらんから、一寸頭を上げて見るともう仕舞えとるちゅうごたる風です。そりゃそこそこの流儀というものがありますからね。けど、合楽のは私は良いと思うんです。とにかくここにお初穂を供えさして頂いて、私が誰それが参って来たと云う事をお取次さして頂いて、私がハイと云う返事をすると皆頭を上げてお届けをする。
 今あっちこっちの方が沢山参って来ますから、それぞれに違うんです。一番私の困るのは今村さん当りの行き方です。あそこから参って來る人達は皆そうです。もうここで頭を下げながらぼそぼそ、ぼそぼそ私には全然聞こえよらんです。自分の心の中で言いよるごと、これは皆んなです。だからあちらは、ああ云う流儀だったばいなあと思うんです。頭を下げてブツブツ、ブツブツ何か言いよんなさるけど。惟は私は聞こえなくっても神様が聞いて御座ると云うから。
 はあ大抵良い加減な所、でハイハイと言いよるだけです。本当は聞こえよらんです。だからしゃっち聞かんならん時には、はあ何ですかと云うと、こん頭を上げられると普通聞こえる様な声で言われる。だからそれがいけんの、これが良いのと云う訳ではないです。矢張りまあ段々本当な事へ、本当な事へとなって行かねばならんです。だから今日は合楽の修行生が、恐らく御本部でもこうやって拝みよるとに違いないから、合楽ちゃ拝み屋のごと聞いとったが。
 ほんなこて拝み屋じゃろうかと、思う者があるかも知れんのです。こうして(合掌)私もそういう時代があった。ですからこれが一番拝みよい事は拝みよいです。神様に一途に向かって行ける。そして霊感の様なものが指先から入って來るです。こうしておると、それであのこうこう動く様にでんなるです。これこれやるとやっぱり拝み屋としか思われない感じです。そりゃしようと思えばすぐ出来るです。一時は体がこうやってもう畳につくごと揺れながら拝む時代があったです私も。
 けどこの頃私の御祈念と云うのは、もう拍手も打たないし、只一時間じっと心の中で祈る事だけしかありません。それはまだ合楽では真似の出来る人はなかろうと思うです。事実、けれどもね、くぎつけではないと云うが、なら正教さんがあれが三十になったっちゃ四十になったっちゃこんな風でやるなら、これはおかしいです。またこれが神様に向かうのには一番向いよいと思うとるから、こうやっとるです。段々手も下に下げて段々優雅な拝み方を出来る様にならなければいけないです。
 今日はね、此の事からこの六十七節を頂きました。くぎつけではないと云うのは、同じであってはならないと云う事です。これは拝む姿勢とか、お取次を頂く形でもです、そうです。本当な事へ本当な事へと変わって来ねばいけません。信心を各自にしておかねばと。例えば私があげんが良いこげんが良い、そげなこっちゃいかんと云うておったら、抜きにしてと云うかそう云う時代もあったけれども、今はこうだと良い方へ有難い方へと姿形も変わって行かねばいけない。
 例えば青年時代の拝み方も五十になってからの拝み方も同じ様な内容、内容であったら尚更なりません。だから内容が変わって來ればねちゃんとなら姿形も変わって來るです。私共はやっぱり御祈念をする時に、せめて大祓の五巻なっと上げなければ神様に心が向かなかったです。もう一心不乱に大祓を繰り返し繰り返し上げました。けどももう私が御本部などに参りましても、奥城で大祓一巻だけしか上げません。天津祝詞大祓一巻だけしか上げない。もうその一巻だけでもう。
 云うなら神様と交流するだけのものが出来る様になったと云う事なんです。もちっと云うならば、私の場合なんか、拍手打たんでも私があそこ御神前に向かったが最後、もう神様が向こうの方から交流し掛って下さる。ですから間に合わんごたるです。そう云うのは皆さんの場合、そういう真似は一人も出来まいと思うですけど、けど段々にはそうなければいけないと思うです。
 言葉に出さなければ御祈念が出来なかかった時代があるです。けどねそれがずうっと同じ形であったら、私は信心が或意味に於て向上しよらんと思わなければならんと思うですね。向上して來るなら、なら合楽流にです、段々合楽流にと云うか、私流にです、御祈念の姿勢でもどの位変わって来たか知れません。まあ以前なんかは、私の御祈念の姿と云うものは狐つきとか、何とか人が言った筈と云う様な感じでした。
 もうとにかく畳に頭を着けてこうやって御祈念をしよりますと、手がね、まっすぐにもうこれ以上は伸ばされまいと云う位に伸びたんです。もうこげんして御祈念しよったんです。これ見ただけでん、大坪さん一寸おかしいなと云っただろうと思うです。そしてその御祈念の手が伸びるだけ伸びたら、次の三段四段位、段々手が下がって來るのです。それにはね、教祖の神様の御座と云うのがあるんです、神様の世界には。次には帰依しておる〇〇先生と云うお徳を受けた先生の座がある。
 そして自分の座へ、私の座へ戻って、そしてお取次を願えばまた御祈念をさせて頂いたと云う時代があります。誰が何てったってそれがね、そうしておった。けどそうした事は長くは続きませんでしたけども、人から言われたから、笑われたから止めたと云うのじゃない、自ずと分かって来たんです。惟はまあ皆さんに知って貰っとかにゃいけんですけど、皆さんがここでお取次を頂かれる。
 もう上品にそろっと言われたっちゃ、私には半分しか聞こえよらんです。本当に親先生に聞いて貰いたいならです、ここまで乗り出して来なければ、私には聞こえないです。こっちの耳は全然聞こえませんし、ですから此処まで顔乗り出してから言いなさらんと聞こえない。聞こえんでんしかし皆おかげ頂きよるでしょうが。皆私が聞こえんでん神様がもう私は後へ退っとろうごたる。
 神様にお届はする、まあ長々しゅうゆっくりしなさる時にはもう、わざと故意に聞きません。もう何にんならんこっちゃから、もう神様病気なら病気のお届けなさるでもですね、そりゃまるっきり私は医者じゃないけんで、どこが病気がどうこう言わんでん、言うて貰うたっちゃ返って困るです。こっちは分からんとじゃから。只お願いをする、その要点だけで良いです。
 只人事相談のごと相談しなさらんならん時には、私は聞こえにゃいけんです。そう云う事もやっぱりあるですから、お取次の中に入っとりますから、そう云う意味で私の思い方を聞いて貰わんならん時には、それもあって良いのですけれども、本当云うたらです、くどくどと言われなくっても、いやそれでも聞いて貰いたいならば、此処へやっぱり一膝乗り出して来なければ、私は実際は聞こえよらんと云う事です。返って聞こえんごたる時がおかげ頂くごたるですよ。
 何故かって、私が人情使わんからですよ。私は全然人情使わない事にしとりますけどです、やっぱり悲しい話を聞けば涙が出る。もう腹ん立って腹ん立ってこたえんじゃったと、云うならそげな事云うてのと、云うて腹かいてやろうごたる時もある。だからそういう人情使うから、返っておかげ頂かんです。私のお取次さして頂く姿勢も内容もです、これはもっともっと変わって來るでしょう。皆さんがお取次願われる姿勢も、やっぱり変わって來なければいけません。
 勿論、拝む姿勢なんかは、もっともっと素晴らしい、信心姿勢が、これはねおかげを受ける姿勢ではない。信心の御祈念をする姿勢です。だから皆さん本当にね、同じここで御祈念をなさるでもです、こっちから行って、そげな格好してからと云おうごたるとがあるです、かと云うと本当に御祈念しよんなさるとじゃろうかと云う位です、てんで頭抱えて御祈念なさる方があるです。
 もうそげなんか一番口に止めるですね。頭抱えとるけん、枕したごとなっとる。こげんしてもう絶対私はね、こうやって合掌したら、この合掌した手と額口が必ず一寸位開けとくです。これに頭を持って行ったら必ず眠るです。それかと思うと、こうして頭抱えてから拝む人もありますけれどもね、やっぱりキチッと平伏して、しかも合掌してしてるのが一番姿が良い様ですね。
 けど、どうしちゃならん、こうしちゃならんけど、自分が拝みようして拝むが良い。神様に一番通じる様な拝み方が一番良い。云うなら正教君のこう合掌して、こうしたのが実際拝みよいです。拝みよいと云うか、その何かを感じますです。信仰的な深いものを感じるです。やってご覧なさい。確かに良いです。けどもこれはね、如何にも云うならば、拝み屋的な感じがするです。
 横っから見よって、ですから段々ああ云う姿勢でも本当な事に、どんな姿勢でも神様に通う様な信心姿勢にならなければならんと、大祓いとか天津祝詞とでもです、何巻も何巻も五巻も十巻もさあ、心が乱れて仕様がない、不安で不安でたまらんと云う時にはそういう行き方もあるです。第一ここでは声を上げて御祈念をしませんですね。それは何時も誰かが御理解を頂いとりますから、それが邪魔になっちゃならんと云うのが一つの習慣になっとりますから、絶対声を上げません。
 いわゆる心中祈念だけです。その代わり御祈念がざぁっとあるです。心中祈念ね心中祈念でも、やっぱり心行くまで祈り願わなければ大体嘘です。声は出して天津祝詞大祓いはすると、どうでも上げんならんから、それまでは座っとらんならん。だから各自の家に帰って御祈念なさる時には、もう腹の底から大祓いのいっちょ上げなさったが良いです。もうそれこそ、うちわ太鼓鳴らしてから拝むと云う様に隣近所の邪魔になる事じゃないですからね、家ではもう腹の底から上げよりますとね。
 もう家内がついて來るです。子供達が後から拝む様になるです。うっついとっちゃづうっと拝んどっちゃ、ついて来ませんです。朝晩の御祈念の時にゃ、ゆっくりとしかも朗々と声を張り上げての御祈念をなさると良いです。けど此処では矢張り皆が御理解を頂いとりますから、御祈念の時だけ上げるですよ。そりゃ皆さん、真から上げにゃいけませんね。信心はくぎつけではない。各自にしとらねば長う続かんと、今日は私はここんところをくぎつけではないと云う所をです。
 同じであってはならないと云う事です。同じであってはならないと云う事は、信心が進んで行きよらなければいけない。これを姿、形の上に於いてもです、やっぱりより有難そうな、より優雅なと云う様な姿勢に変わらなければいけないと。又長う続かんと云う事は、長う続くと云う事はです、信心が向上して行かねばならないと云う事だと。長う続くと云う事は、長うどんばっかり続いてからいっちょん信心が出来まっせんと、これではいけないと云う事です。そげなつなら長う続かんがよか。
 長う続くと云う事は、長う続いとる内に去年よりも今年と云う様に信心の内容が豊になって來る。今日は長う続かんと云う事から、昨日の御理解を引用すると一年一年有難うなって行かねばならない。長う続くと云う事。これには有難うなって來れば來る程、云うならば神様と交流する、云うなら密度が濃くなって來れば來る程です、問題は天津祝詞もいらんでしょう、大祓いは尚更いらんようになるでしょう。云うなら何も言わんでん、心と心が交流するですからね。
 今の所私はそれをもって、それを最高のものだとこう思うとります。交流し出してご覧なさい。眠るだんじゃないです。何時神様からどう云う事頂くやら解らん。長う続かんと云う事。長う続くと云う事は、信心が段々進んで、高められて行かねばならないと云う風に今日は聞いて頂きました。釘着けではないと云う事。それから各自にしとらねばならぬと云う事。何故銘々にしとらねばならぬかと、云うならば今私が通っておる所のです、声を出しなさんな。
 拍手もいらんばい、黙って拝みなさいと云うたっちゃ、皆さんにはピンと拝んだごとないでしょう。だから私の真似をせろと云う事はないと云う事です。けど段々は本当な方へ本当な方へと、例えば正教さんの様な拝み方が何年経ったっちゃあの状態であるならば、あれはおかしいです。だからこれは何時の間にか何とはなしに段々本当な事になって行く事でしょう。信心も何とはなしに段々有難うなって行く信心を頂かねばいけませんね。
     どうぞ。